第四話 忘れられた遺跡
翌朝、ヨザックに案内されて辿り着いたのは村外れにある小さな遺跡のような場所だった。晴れているのに白く霧がかっているせいか不気味な雰囲気が漂っている。石造りの壁や足元は大半が脆く崩れかけていて、うっかり踏み外さないように慎重に歩く必要があった。小鳥の一匹も鳴かない静寂の中、靴の裏で踏み潰された小枝がパキリと折れる音だけが漏れ響いた。
「今じゃ酷い有様だけど、ここは村の守り神様を祀ってる神聖な場所なんだべ」
まだスライムの気配はないが、無駄に気付かれないようにという配慮のつもりなのだろう、ヨザックは声を潜めて話しかけてきた。
聞けば、一昔前までは祭事も頻繁に行われており活気があったこの場所だが、長年の間に村人たちの信仰心は薄れていき、今ではほとんど放置されているのだという。人の気配が消えた遺跡はやがて野生動物の棲家となり、危険なのでますます誰も近寄らなくなったところにスライムが居着いてしまったらしい。
「それじゃ、おらはここで待ってるだよ。気をつけて行ってきてな」
遺跡の奥にある重い扉を潜った先には、地下に繋がる階段があった。中の様子は見えない。ひたすらに闇が大きく口を開けて待ち構えているようだった。底知れぬ闇を前に、リュカはゴクリと喉を鳴らした。
「ルナ、本当に平気か?引き返すなら今のうちだが……」
リュカは言いかけて、息を呑んだ。
「大丈夫です。私も行きます」
ルナの真剣な眼差しを見れば、それが愚問だとすぐに分かった。美しい新緑の瞳の中には確かな覚悟が揺らめいている。
「では、行こう。足を踏み外さないよう気をつけてくれ」
ルナの意思を汲み取ったリュカは、先導となるべく闇の中に身を投じていった。
「でやあああっ!!」
リュカは吠えながらスライムに突撃していった。弧を描くように繰り出された鋭い刃が次々とスライムたちを薙ぎ払い、ただの物体に変えていく。
やっと終わったか、と自身の汗と飛び散った半透明の液体を拭ったところで、柱の向こうからまた別の個体が顔を覗かせる。リュカは顔を引き攣らせた。
「チッ、キリがないな」
たいして強くはない相手とはいえ、連戦続きでリュカの体力は確実に消耗していた。相手は無限に増殖するスライムだ。このままではまずい。体力が尽きてしまう前になんとかしなければと、大きく息を吐いたところで背後に忍び寄る影があった。
「リュカ、うしろ!」
完全に不意を突かれ、スライムの攻撃をもろに受けそうになる寸前で、横から差し出された杖によって事なきを得た。ルナが杖を振るったのである。物理的に殴る想定で作られていない杖でも、思い切り力を込めて叩けばそれなりの殺傷能力はあるようで、リュカが振り返ったときにはスライムは力なく伸び切っていた。
「わ、私でも……戦えますから……!」
まさか自分がトドメを刺すとは思っていなかったのだろう、ルナは小さく震えながら杖を握り直した。きっと殺生とは程遠い世界に生きてきたシスターなのだ、魔物とはいえ生き物の命を奪ってしまったことに動揺していてもおかしくはない。
「助かった。すまない、嫌な役目をさせた」
リュカはルナの頭に穏やかに手を置くと呟いた。
「早く終わらせよう」
ルナはその手を振り払うこともなく不思議そうに見上げている。できればこの少女に辛い思いはさせたくない、とリュカは思った。命を奪う心の痛みを感じるのも、血に手を汚すのも、自分だけで良い。
リュカはすぐに臨戦態勢をとり、柱の向こうからこちらに向かってくる魔物の群れに意識を集中した。
「終わりました。もう、動いても大丈夫ですよ」
白く温かな光が止む。かざしていた手を下ろし、ルナは微笑んだ。
「ありがとう。この戦い、お前がいなければ詰んでいたかもしれん」
なんとかスライムの大群を退けた後、疲れ切った体をルナに魔法で癒してもらったところだった。何度経験してもこの奇跡には驚くばかりだ。魔法の心得がなく、傷を癒すといえば専ら傷薬に頼っていたリュカにとって、瞬時に全快させてしまう治癒魔法には目を見張るものがある。
さらに遺跡の奥へと進んでいくと、急に明るく開けた場所に出た。
「ここは……ヨザックさんが言っていた祭壇なのかもしれません」
崩れた天井から差し込んだ外の光が、偶然にも祭壇の中央に鎮座する台座にぶつかってその全体像を顕にさせている。ここも遺跡外部と同様、ずいぶん荒れ果てている。台座はひび割れと苔だらけだった。祀っている神の名が記されているようなのだが、風化して消えかかった文字がほとんどでまともに読むことはできなかった。
「……お出ましか」
光の当たらない台座の奥、闇の中から殺気を纏って現れたのは、今まで見たことないほど巨大なスライムだった。高身長のリュカの背丈すら余裕で越している。踏み潰されれば熊や虎でも一溜まりもないだろう。
リュカはルナに下がっているよう目配せしてから、ゆっくりと鞘から剣を引き抜いた。
ピキイイイイ!
けたたましい咆哮と同時に、重そうな見た目からは想像もつかない素早さで、巨体は高く跳躍した。そしてそのまま台座を軽々と飛び越えると、リュカの頭上に今にも降りかかろうとしている。
「危ない!」
ルナの悲鳴を聞くまでもなく横に避けると、次の瞬間リュカがいた場所に巨体が沈み込んだ。しかし自身の重さが仇になってかしばらく動けないらしい。素早いだけで隙だらけだ。今がチャンスとばかりに剣を叩き込むと、たいした抵抗もなく引き裂かれた肉の奥に、拳大の石が埋め込まれているのを見つける。
「……そこだ!」
案外あっけなかったな、なんてことを思いながら、魔石目がけて一気に剣を振り下ろした、その時だった。
「なっ……!?」
リュカとスライムの間に突然巨大な鋭い爪が割って入った。それと並ぶと巨大スライムですら赤子のように小さく見える。驚いて仰反るも完全には避けきれず、浅く切り裂かれたリュカの腕から鮮血がほとばしる。
「ぐっ!」
痛みに顔を顰めながら見上げると、鳥とも獣とも言い難い謎の巨大な生物が、闇色の暗い瞳に静かな怒りを据えて、じっとりとリュカを見下ろしていた。
「我が聖域を荒らすのは誰か」
威厳ある声が反響してビリビリと地面を揺らす。立派な翼が光に照らされて神々しく輝く様は、見惚れるほど美しかった。
リュカが思わず呆けていると、声の主は痺れを切らしたように再び口を開いた。
「我は神獣。神より与えられし力を行使して、この地の安寧を守る者」
「神……獣……?」
リュカは聞き間違いではないことを確認するように言葉を反芻した。
神獣。おとぎ話でしか聞いたことがなかった存在が、どういうわけか、目の前にいる。
俄かに信じ難くて目を丸くするリュカを見下ろしたまま、神獣と名乗ったその生物はフンと鼻を鳴らした。
「初めは皆そうじゃ。我を見て驚愕するか感嘆の声をあげる。それが今ではこの様よ……我を神と崇め足繁く通っていた者たちも、いつからかパタリとその足を途絶えさせた」
神獣の瞳が、憎悪に満ちていく。
「都合の良い時だけ寄り付き、用済みとあらば捨て置くか。人間とはなんと自分勝手なものよ……」
身の毛もよだつようなおぞましい殺気がその瞳に宿るのを見逃さなかったリュカは、一瞬の判断でその場を飛び退いた。
「神を捨てた村など滅びるが良い。貴様らもここで喰らい尽くしてくれるわ!」
次の瞬間、振り下ろされた分厚い爪が地面を深く抉った。衝撃で捲れ上がった床の一部が飛んできてリュカの頬を掠めていく。もし直撃していたらと考えるとリュカはゾッとした。スライムのときとは訳が違う。素早さも殺傷能力も何もかもが桁違いだ。
「まずは貴様から片付けてやろう」
闇色の瞳がギョロリとリュカを凝視した。射抜くような目線に、話し合いでどうにかなる相手ではないことを悟る。
それでも怯むことなく立ち向かおうと剣を構え直したリュカの眼前で、何を思ったか神獣は明後日の方向にぐるりと首を向き直し、そこにいた巨大スライムを軽々とつまみ上げるとなんと一口で丸呑みにしてしまった。
「な、なんだ……!?」
呆然と声を荒げたリュカの前で、神獣はゆっくりと姿を変化させると、スライムと半分混ざり合ったような、異形の魔物へと成り果てた。
「くっ……くくく……くははははははっ!!これは良い!力が溢れてくるわい!」
白い翼は粘液でベトベトに濡れ、高らかに笑う口元からは獰猛な牙が見え隠れしている。美しかった面影は今や皆無だ。その姿は聖なる神獣と呼ぶにはあまりにも禍々しく、もはや悪魔の様相を呈していた。
「愚かな人間どもよのう。きちんと掃除さえしていれば、この軟体生物も生まれずに済んだというのに。こやつらは元は溜まった汚泥に湧いた微生物じゃ。日陰を出て自由に闊歩したいとでも願ったのじゃろうて」
神獣はクツクツと乾いた笑みを浮かべている。
一体何が、その身をそこまで堕とさせたのか。
村を守っていた優しい守り神が、こんなにも憎悪に溢れてしまったのは、本当に村人たちだけのせいだろうか。
確証は持てないが、思い当たる節はある。
「あれは……魔石です!」
ルナの指差す先を目で追えば、神獣の喉元が不自然に盛り上がり、その身を支配するかのごとく不気味な閃光を放っていた。
「さあ、我が真の力をその目に焼き付けるが良い!」
大地をも揺るがす凄まじい咆哮をあげ、神獣は爪を振り下ろした。
「くっ……!」
剣を突き立てる暇もなく、ただ攻撃を避けるためリュカは奔走していた。それでも完全には防ぎきれず、神獣が動く度にリュカの生傷は増えていく。すぐにでも治癒魔法が欲しいところだが、この状況では叶いそうもない。
「無事か!?」
迫る爪を避けながらルナに問うた。振り向いて確認する余裕はない。
「な、なんとか……!」
視界の隅を探すと、衝撃で地面が捲れ上がってできた岩陰に身を潜めているルナの姿が見えて、リュカはひとまず安堵した。しかし、何かの拍子に流れ弾でも飛んで行ったりしたら。あるいは急に神獣の気が変わって、ルナに狙いが定められたりしたら。リュカは珍しく焦っていた。
そうこう思案しているうちにも、容赦なく豪速球で飛んできた爪がリュカの眼前に迫り――。
避けきれない。
リュカは嫌でも思い知った。あまりにも格が違いすぎると。
「……がはっ」
咄嗟に構えた剣も虚しく、強烈な一撃を真正面からくらったリュカは、血飛沫をあげながら倒れた。
「リュカ!!」
立ち上がれない。止めどなく流れる血はみるみるうちに血溜まりと化していく。リュカは肩で息をしながら、白く曖昧に溶けそうになる意識を必死に縛り付け、気力を振り絞ってありったけの声で叫んだ。
「ルナ、逃げ、ろ……!!」
それだけは、どうしても伝えておかねばならなかった。手遅れになる前に。神獣の興味が自分に向いている今なら、まだ間に合う。
ところが。
「いいえ」
岩陰に隠れていたはずのルナが、すくりと立ち上がった。神獣から丸見えになるのも厭わずに。
「……な、何考えて……」
リュカが最後まで言い終わらないうちに、神獣の闇色の瞳がゆっくりとルナの方を向いた。新しい玩具でも見つけたと言わんばかりに、神獣はニタリと意地悪く口角を吊り上げる。
「嫌です!逃げません!!」
大きく振りかぶられた爪の行き着く先、その軌道上にいることが分かっていてもなお、ルナは背を向けようとはしなかった。その目は真っ直ぐに神獣を見据えている。
「愚かな娘よ。恐怖のあまり気でも狂った……か……?」
呆然と見つめる神獣の先で、ルナの手から放たれた小袋が宙を舞った。袋の口を閉じていた縄が解け、中身が軽やかに散らばる。
「ぐはあああ!!臭い!臭いぞ!!」
辺り一面に良い香りが充満すると同時に、神獣は身を捩って苦しみ始めた。
袋の中身は、村の集会所に撒かれていたあの香草だった。清涼な香りがリュカの鼻腔を掠め、熱を帯びて軋んでいた身体も不思議と癒されていく。
「リュカ、傷を見せてください」
のたうち回る神獣の隙を見計らって、ルナは素早くリュカの元へ駆け寄ると、一気に治癒魔法を施した。瀕死の重傷から回復したリュカは、立ち上がると再び剣を握り、神獣の首元を静かに捉え直す。
「香草の効き目はそんなに長くはありません。どうか今のうちに……」
ケホ、と咳込んで力なく崩れ落ちたルナを背中に隠し、リュカは無言で深く頷いた。
やるなら、今だ。
ルナが繋いでくれた機会を、命を、無駄にしてたまるものか。
「おのれ……おのれええええ!!」
激昂した神獣は身体をめちゃくちゃに振り回した。しかし香草のおかげなのか、その動きは以前に比べると明らかに俊敏さに欠ける。
降ってくる爪を避けて神獣の懐に潜り込み、剣を打ち込めば、いとも簡単に傷が付いて神獣は絶叫した。
「神獣と呼ばれた……神であるこの我が……こんな狼藉者どもに……!」
「今のお前は、もはや神ではない」
リュカの剣が神獣の首元を貫いた。
「せめて安らかに眠れ。かつての神としての尊厳を失わぬうちに」
その言葉が届いたかどうかは、定かではない。
神獣は轟音とともに巨体を地に沈めると、やがてピクリとも動かなくなった。