第二章 不穏な影
第一話 ガチガチのパン
新緑の季節。爽やかな風が肌に心地良い。
二人は人気のない自然豊かな平原をただひたすらに歩んでいた。
ヨーデリアからシルフィまで向かうにはいくつかルートがある。ルートの選定もリュカに委ねるとのことだったので、なるべく国境付近を避けつつ起伏が穏やかな田舎道を選んだ。大回りになるとしても今の世界情勢を鑑みればその方が安全には違いない。
一人でなら戦地を突っ切れば半月ほどで辿り着けないこともないだろうが、線の細い少女にまさかそんな無茶はさせられない。
「良い風ですね。こうしている間にも世界のどこかで血が流れているだなんて……信じられないほど穏やかです」
「ああ。人がいなければそもそも侵略対象にはならんだろうからな。小さな村をいくつか経由することになるから、多少不便かもしれんが我慢してほしい」
特に危険な場所でもないが、万が一に備えてリュカは周囲に目を光らせていた。一方のルナはこの景色が物珍しいのか、あちらこちらへと視線を泳がせてはそわそわと機嫌良く歩いている。まるで隙だらけだ。だがそれで良い。自分が側にいる限り、主の身には指一本触れさせない。主に隙があるとすれば、傭兵たる者、その隙を埋めるのが仕事だ。
「疲れたら休憩するから遠慮なく言ってくれ。先を急ぐあまり倒れられては本末転倒だ」
「ありがとうございます」
主の体調にも気配りを忘れずに。しかし優しいように見えて実はそうではなかった。実際倒れられては困るし、ルナを気遣う発言に嘘はないのだが、リュカの根底にあるのはただ一つ、金を稼ぐこと。あくまで仕事だから他人に尽くすし、優しくもする。リュカが淡々と最適解を探して動けるのも、全ては金のためだと割り切っているからこそできる芸当だ。
「では、お言葉に甘えて。この辺りで少し休憩していきましょうか」
ルナは若草色のドレススカートが地面に直接つかないよう丁寧に裾を丸めてから木陰に腰掛けた。隣に座るよう手招きされてリュカも腰を下ろすと、心地良い風がふわりと通り抜けていく。
ふと目が合うとルナはにこりと微笑みかけてきた。リュカもほんのわずかに口元を緩ませ、最低限、敵ではないと意思表示をする。
あんなことがあったというのに、ルナはもう心を開いているようにすら見える。意味が分からない。リュカにはまだ、仮初の笑顔を貼り付けるくらいしかできないというのに。
信頼とは何か。ヨーデリアで断罪されたときには自分にも掴めるかもしれないと期待したのだが、そう簡単にいくはずもなく。
ぐうう……。
リュカの腹が小さく鳴った。考え過ぎるなという天からの啓示だろうか。
「ついでに軽く飯でも食うとしよう」
歩けば腹も減る。ルナの顔色を見るにまだ余裕はありそうだが、食べられるうちに食べておいて損はない。
そうして荷物袋に手を突っ込んだリュカだったが、しまった、と顔を引き攣らせた。
「どうかしましたか?」
「すまない。……あまりロクなものを持ってこなかった」
戦地での癖が抜けきれず、つい。
荷物袋に山盛り入っていたのは、牢獄でルナに渡したものと同じあのガチガチのパンだった。
まずいと不評の嵐のこのパン、日持ちはするし腹持ちが良いので、リュカは重宝しているのだが。少なくとも他人に勧める代物ではないし、獄中と同じ食事を出すというのはさすがに憚られる。
「村まではそう遠くない。そこでもう少しマシなものを――」
「えっ?あの、食べないのですか……?」
荷物袋を閉じようとするとルナは残念がった。実はよほど腹が減っているのだろうか。
「いや、その。牢獄で渡したパンがあっただろう。あれと同じものなんだ、これは。あまり気分が良いものでもないかと思ってな……」
牢獄での出来事を思い出し、苦い気持ちになるリュカ。歯切れが悪くなるのも仕方がない。
ところがルナはクスリと笑った。
「いいえ、なおさらそのパンが良いのです。お一ついただけますか?」
「そ、そうか?もちろん構わないが……」
言われるがままにガチガチのパンを差し出すと、ルナはそれを手で器用に割って一口サイズにし、次々と口に運んでいく。
その様子を黙って怪訝な顔で見つめるリュカに、ルナはにこりと笑って言った。
「捕虜になったとき、本当は心細く思っていました」
「……すまなかった」
「あっ、いいえ!そうじゃなくて……このパンを貰ったとき心底安心したのです。あなたが酷いことをする人じゃなくて良かったと。だから、変かもしれませんが……これも私の大切な思い出の一つなのです」
ルナは最後の一口をもそもそと食べ進めている。
「それに。口の中の水分が持っていかれますが、よく噛めばほんのり穀物の風味を感じます。そんなに悪くない……かも……?うーん……」
苦し紛れに味を擁護するのがなんだかおかしくて、リュカの目元が自然と和らぐ。水を差し出しながらリュカは言った。
「無理しなくて良い。これから長旅になるんだ。もう少し美味いものを食ってもバチは当たらん。毎回豪勢な食事というわけにはいかないが、ひとまず次の村では美味いものを食おう」
「ふふ。それは楽しみです。ありがとうございます、リュカ。やっぱりあなたは優しいのですね」
優しい、という単語にピクリとリュカは肩を強張らせた。
そうだろうか。何故か湧いた罪悪感にリュカは苛まれる。
「それは違う」
ルナは誤解しているのだ。
「この際だから言っておくが、俺は傭兵としての仕事をしているだけにすぎない。全ては金という見返りがあってこそのこと。だから、俺の中に優しさなんぞを見出すのはやめておけ」
これは本心だ。あくまで自分のため。
しかし強いて言うならば忠告のつもりでもあった。ルナはおそらく他人を疑うことを知らない。性善説で生きてきた少女を意図せず裏切るのはリュカの信条に反する。それなら最初から何の期待も持たせない方がまだマシだ。
「そうでしょうか?」
静かに耳を傾けていたルナだったが、新緑に映える緑色の瞳を輝かせ、不思議そうな顔で大きく瞬きをした。
「では、そういうことにしておきましょう。例えお金のためだとしても、こうして私に尽力していただいていることには感謝していますよ。改めてよろしくお願いします」
この少女、何者なのだろうか。やけに達観しているところがある。
こちらの心を見透かすような、何か含みを持たせた発言にリュカは戸惑った。しかし悪い心地はしない。リュカを真っ直ぐに捉えるルナの瞳はキラキラと美しく輝いている。
一本取られた。
これ以上の弁明は諦めてリュカは荷物袋の後片付けをすることにした。しかし袋を持ち上げてからすぐ、リュカは違和感に気付く。
おかしい。山盛りあったパンが明らかに減っている。
「くっ、俺としたことが!」
これが戦地であったなら命はなかったかもしれない。
リュカは己の油断を悔やみつつ、迷いなく剣を引き抜くと、それを真っ二つに切り裂いた。