第三章 魔法使いの姉弟

 

第一話 誰が為に剣を取る

 

 

 

「おにいちゃん、おにいちゃん!」

 

 闇の中から、少女の声がリュカを呼んだ。

 

「どうしたの?ぼんやりしちゃって」

 

 いつの間にこうしていたのだろうか。閉じていた瞼をゆっくりと開くと、リュカの眼前には懐かしい光景が広がった。遮る物のない広い夜空には煌々と星が瞬き、茫洋たる大海を月の光が静かに照らしている。ここは水の帝国ウィンデルの領内にある田舎の漁村で、リュカの生まれ育った故郷の地だった。

 

 何故か頭がひどく痛むが、目の前の少女の可憐な微笑みを見れば、そんなことはどうでもいいとさえ思えた。

 

「起きていても平気なのか?」

「うん、だいじょうぶ!今日はわたし、なんだか調子がいいもの……あっ」

 

 くるりとその場で旋回しようとし、足をもつれさせて崩れかかった少女を慌ててリュカは抱き留める。白いワンピースに通された肌はほっそりとしていて青白く、少し力を入れただけで壊れてしまいそうなほど儚い。リュカと同じ金色の柔らかな髪がふわりと風に靡くと、微かに薬剤のような香りが漂った。

 

「嘘は良くないぞ、アイネ」

 

 だって、とむくれる少女――アイネの身体をそのままひょいと抱え直して持ち上げてみれば、驚くほど軽い。清涼な夜風に晒されてもなおその小さな身体は不自然に熱を帯び、呼吸は荒く乱れて苦しそうだ。

 

 アイネの身体は蝕まれていた。原因不明の、重い病に。

 

 初めは風邪を拗らせたのだと思った。冷え込みの激しい時期で、村でも何人か高熱を出して倒れていたから、てっきりどこかで貰ってきたのだろうと。しかし数日が経ち、他の村人たちがとっくに回復した頃になっても、アイネは床に臥したままだった。

 

 様子がおかしいと医者の元へ駆け込むも治療の甲斐はなく、アイネは日に日に衰弱の一途を辿っていった。やがてろくに食事も喉を通らなくなり、眠っている時間が増えた。もうこの頃になると、ただの風邪ではないことは誰の目にも明らかだった。

 

 そして村の医者からこれ以上どうしようもないと告げられて、リュカは愕然とした。

 

 このままでは、アイネは――。

 

 最悪の想像を振り払うように、来る日も来る日もリュカは必死で治療法を探した。しかしどれもこれも効果はなく、部屋には試した薬の空き瓶が増えていくばかりだった。

 

 流行病で早くに両親を亡くしたリュカにとって、残されたアイネは唯一の肉親だ。贅沢なんかできなくたって良い。ただこの村で二人静かに暮らせれば、それだけで幸せだったのに。そんなささやかな日常が今、まるで掌から液体がこぼれ落ちるように崩れ去ろうとしている。リュカは毎日、眠る愛しい妹の手を握っては、もう何も奪わないでくれと、ぶつける相手のいない怒りと悲しみを募らせていた。

 

 そんなある日、たまたま村を訪れた行商人によって状況は一気に好転する。

 

 藁にも縋る思いで大金を叩いて買ったその薬は、異国から仕入れた貴重な秘薬だとかで、名声に恥じぬほど覿面に効果を発揮したのだ。

 

"おはよう、おにいちゃん"

 

 柔らかな朝の日差しの中、目を覚ましたアイネが微笑んでいた。

 

 買い出しから戻ってきたリュカの手から、どさりと袋がその場に落ちる。そのままリュカは一目散にアイネの元へ駆け寄ると、何度も確かめるように髪を撫で、それから抱きしめて涙ぐんだ。

 

 ところが安堵したのも束の間、あの薬は症状を緩和こそすれど完治させるには至らないと判明する。薬を飲み続けてさえいれば死ぬことはない。しかしそれはつまり、飲み続けなければ助からないのと同義だった。

 

 薬代はたとえ村中から借金をしたとしても到底払い切れる額ではなかった。このまま田舎の小さな漁村にいる限りは大した稼ぎも得られない。ならばとリュカがとった手段こそが、稼ぎの良い傭兵になることだった。

 

 幸い村には世話好きな年寄りや教会の聖職者がいるから、アイネのことは彼らに頼めばなんとかなるだろう。妹の命が助かるのなら、仮に戦場で命を散らすことになろうとも構わない。覚悟はとうの昔にできている。

 

 どこでこの話を聞きつけたのか、揉み手をしながら近付いてきた行商人は、胡散臭い微笑みを顔に貼り付けたままこう言い放った。

 

"万が一あなたが死んだら、臓物を回収しお金に換えて差し上げましょう。人間の身体は高値がつきますから。これなら薬代のお支払いも滞りなく可能ですね!"

 

 人の心がないように思えて、実はリュカにとってもそんなに悪くない話だった。生命保険のようなものだと行商人は言う。

 

 それからリュカは傭兵として働くようになった。勤勉で冷静な性格と恵まれた体格が功を成してか、一端の傭兵に成長するまでさほど時間はかからなかった。しかし金を稼げば稼ぐほど、反比例するように村で過ごせる時間は少なくなっていった。

 

 だから久しぶりに村に帰ってきたときは、こうしてなるべくアイネの側にいることにしている。

 

「あまり夜風に当たると良くない。今日はもうおやすみ、アイネ」

 

 一度旅立ってしまえば、また戻って来られる保証などどこにもないのだから。

 

「でも、おにいちゃん……明日になったら、また……」

 

 それはアイネも分かっているからこそ、体調不良を押してでもこんな夜中まで起きているのだろう。

 

 明日は確か――何だったか。どういうわけか記憶が朧げだが、大型案件が控えていることは間違いなかった。次の仕事さえ終わればしばらくは村でゆっくり過ごせるはずだ。そうなったら、今まで以上にアイネの側にいてやるつもりだ。土産話ならたんまりあるし、アイネも外の世界のことは知りたがっていたから、飽きるまでいろんな話をしてやろう。途方もなく続く戦いに身を投じる中、遠くに薄ら一筋の希望の光が差し込んだような、そんな心情をリュカは抱いていた。

 

「心配するな。必ず帰ってくるから」

 

 包み込むように頭を優しく撫でてやると、アイネは顔を赤くして鼻を啜った。

 

「絶対よ?おにいちゃん」

「ああ。絶対だ」

 

 断言できるほど世の中甘くないことは知っていながらも、今はただ肯定することが最善のように思えた。

 

「あっ……まって!」

 

 帰路につこうとアイネを抱えたまま立ち上がった拍子に、アイネの懐から何かが砂浜に転がり落ちた。

 

「明日の朝まで秘密のつもりだったのに……」

 

 拾い上げてみれば、それは青バラを模した美しいブローチだった。月の光に照らされて幻想的な輝きを放っている。

 

「これを俺に?」

「うん。私の代わりにおにいちゃんを守ってくれますように、って思いながら作ったの。教会のシスターがね、作り方を教えてくれたんだ」

 

 海岸で集めた貝殻の形を整えて塗装し、加工したものだという。工芸品造りが趣味のシスターにいろいろと教わったのだろう、少々歪ではあるが売り物に出しても遜色なさそうなほど、見事な出来栄えである。

 

「……気に入らなかった?」

 

 見た目の完成度うんぬんよりも、アイネが自分のために一生懸命作ってくれたことがただただ嬉しくて感慨に耽っていたのだが、逆の意味に勘違いされそうになったところで慌てて我に返る。

 

「まさか!嬉しい。とても嬉しい……ありがとう。大切にする」

「ふふ。よかった」

 

 リュカの真意が伝わったらしく、アイネは安心したように微笑んだ。

 

「男の人が身に付けるものにしては、ちょっと派手かもってシスターは言ったの。でも、おにいちゃんって地味だから、それくらいがちょうどいいのかなって」

 

 リュカは内心がくりと崩れ落ちた。最愛の妹にそんな風に思われていたとは。確かに普段は実用性を重視してばかりいるから、お洒落の類から遠のいているのは事実ではあるが。

 

「たとえば、どこかで素敵な女の人に出会うかもしれないでしょ?そうなったときに、わあ綺麗!ってなった方がきっと上手くいくと思うんだ」

 

 浮いた話の一つもないリュカのことを、アイネなりに心配しているらしかったが、果たしてそんな機会はやってくるのだろうか。

 

 それ以前に、女心とはそんなに単純なもんじゃないだろう、とリュカは目を細めて苦笑した。ということは、そのうちアイネの前に見目麗しい男が現れたら、そいつの元へ行ってしまうのか。そうはさせるまい。娘を嫁に出す父親の気持ちが分かってしまいそうで、きっとまだ先の話だからとリュカは無理やり心を落ち着かせるのだった。

 

「……わたしのせいで、おにいちゃんが手にするはずだった未来を諦めてほしくないの」

 

 ぽつりと呟かれたこの一言こそが、アイネの言いたかったことなのかもしれない。

 

「そんなことはない」

 

 顔を曇らせたアイネをリュカは優しく宥めた。

 

「俺は何も諦めてなどいない。戦いの果てにお前がいてくれるのなら、それこそが俺の求める未来だから」

「おにいちゃん……」

 

 月夜に照らされた海が静かに輝いている。寄せては返す涙の音だけがリュカたちを包み込んでいた。

 

「帰ろう。良い子はもう寝る時間だ」

「そっちじゃないよ」

 

 海に背を向け、一歩踏み出したところで声がかかった。不審に思いアイネを見ると、アイネはゆっくりと明後日の方向を指差して、ふ、と笑った。

 

「おにいちゃんの帰る場所は、あっちだよ」

 

 アイネの視線の先には何もなかった。見知った光景でさえも、何もかも。どこからか溢れ出した光が視界を支配し、全てが白く溶け始めていた。

 

「アイネ!」

 

 腕の中にいるはずのアイネが、消えていく。

 

「待ってる人がいるんでしょう?早くその人のところに行ってあげなくちゃ」

 

 光の向こうで誰かがリュカを呼んでいる。アイネではない誰かが。何か大切なことを忘れている気がして、しかし思い出せない。それよりも今は目の前の大切な存在を失いたくなくて、必死に抱き寄せようとするも虚しく、掴んだ手は空を切った。

 

「わたし、いつも側にいるから。忘れないでね」

 

 最愛の妹の声を聞いたのは、それが最後だった。

 

 太陽のように明るく温かい光がリュカを包み込むと、次の瞬間、彼の世界は一変した。

 

 

 

 

 

 

「……カ、リュカ!」

 

 身体が鉛のように重い。冷たい床の感触に、自分がどこかに寝かされていることを知る。そして徐々に鮮明になっていく意識。

 

 夢を、見ていたのだ。懐かしい、故郷の夢を。

 

「はっ!」

 

 跳び上がりそうなほどの勢いで上体を起こしてみれば、危うく真正面で介抱してくれていたルナにぶつかりそうになった。

 

「ああ、気がついたのですね。良かった……!」

 

 立ちあがろうとするも、クラクラと目眩がして断念した。貧血だ。おそらくルナが治癒魔法を使ってくれたのだろう、外傷は綺麗に塞がっているが、服には誰のものかも分からない血がべっとりと染み付いている。

 

 そうだ。確か野盗に襲われて、それから――。

 

「よう、やっと起きたか。その服貸しな。いつまでも血生臭い格好でいられちゃたまったもんじゃないぜ」

 

 突如ルナの後方から現れた見知らぬ青年によって、リュカの思考は遮られる。ルナが警戒していないところを見るに、剣を取る必要はなさそうだ。

 

「紹介します。この人は――」

 

 ルナが口を開くのを制するように軽く肩を叩いてから、青年は得意げに胸を張って言った。

 

「俺はオズワルド。炎の天才魔法使いさ」

 

 にっ、と歯を見せて笑う彼は、魔法使いを自称するにふさわしくローブに身を包んでいた。帽子の下から覗く髪は、太陽色。まるで炎を彷彿とさせるような、そんな色だった。